昭和四十七年六月九日 朝の御理解
X立教神伝 (安政六年十月二十一日)                           此幣切堺に肥灰差止めるから其分に承知して呉れ、外家業を致し農業へ      出人が呼びに来戻り願いがすみ又農へで又も呼びに来、農業する間もな      し、来た人も待ち両方の差し支えに相成る。なんと家業をやてめ呉れぬ      か。其方四十二歳の年には病気で医師も手を放し心配致し神仏に願ひお      かげで全快致しその時死んだと思うて欲を放して天地金乃神を助けて呉      れ家内も後家になったと思うて呉れ後家よりまし、もの言われ相談もな      り子供連れてぼとぼと農業し居って呉れ。此方のように実意丁寧神信心      致し居る氏子が世間になんぼうも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやっ      て呉れ。神も助かり氏子も立行く、氏子あっての神神あっての氏子繁昌      致し末々親に掛かり子に掛かり、あいよかけよで立行く。
 この立教神伝の願いとされておられるところは、この一番最後のところ、氏子繁昌致し、末々親に掛かり子に掛かりあいよかけよで立行くというところにあると思うですね。だから、こういうひとつの助かりという事を天地の神様が願っておられるという事がわかります。
 ですから金光教によっての真の助かりというのは、やはりいうなら大変に難しい事ですね。けれども御教えにもとずかせて頂いて信心生活をさせて貰うと、誰でもおかげを受けられる道なんです。難行苦行といったものがあるという訳ではなし、日常生活の上に、信心を頂いていこうというのですからね。
 それを厳しいようですけれども、御理解二十六節に日に日に生きるが信心なりとおっしゃる。金光様の御信心は日に日に生きるが信心。
 そういう信心を私共は、身よつけさせて頂くというか、先日、秋永先生が御本部で入殿のおかげを頂きました。それであちらで、布教部長先生から聞かせて頂いた話によりますとね、今金光教の信者が段々減っていっておるという事です。
 私はそれを聞いてからびっくり致しました。段々日勝り月勝り代勝りとおかげ頂かにゃならんのに、段々金光教の信者が減っているのだと。
 私はそれを聞かせて以来、神様への教団の事についてのお願いというのは、どうぞ金光教の信心が真の助かり、真の発展をお願い申し上げますというふうにお願いさせて頂いておる。
 只、信者がどんどんいみりさえすりゃよいという、そういうもんじゃない。本当の信心がです、いわゆる真の発展、それには真の助かり、本当の助かりを信者で固めていくようなおかげを願っております。
 只、枯れ木も山のにぎわいという、それでいけないという訳じゃないけれども、真の助かりを求めて信心をさせて貰う。いわゆる真の進展、発展を願わせて貰う。
 皆さん御承知でしょうか。菊の一種ですけれども都わすれという菊がありますよね 地に咲いた野菊のようですけれども、あざやかな紫の色をした菊の花です。あれは都わすれです。これは花屋さんがね、只素人の家に、只植えた位の事じゃ絶対なくなってしまう。素晴らしい花なんですけれどもね、もう、手入れをよっぽどしない限りなくなってしまう。私は金光教の信心はね、丁度都わすれのようなもんだと思うです それはお道の信心が素晴らしいという事は、私が最近説いておる、もうあらゆる、宗教宗派の、例えば、宗祖教祖の方達がです、一応金光大神のお弟子になられなければ本当の世界の真の平和とか望まれない。
 お釈迦様でもキリストでも、ここまでは説きえてなかったという事の為には一応、金光大神をマスタ-なさらなければいけない。これは私は本当にそう思うのです。
 という事を金光教は、こういうところが、こういうふうに有難い、この立教神伝なんかでも、これは独壇場ですよ。只、神様があっておかげを頂くと、神様は絶対のもきとして、いわば氏子の上に君臨してござる。というのが普通の宗教でしょう。
 ところがこの例えば、金光大神でもそうですけれども、私共信者一般にでもです、どうぞ信心しておかげを受けてくれよとう頼んでおられる神様なんです。
 だからそのおかげを受けてくれよというのはです、私が最近金光教の信者が段々減っておると言う事を聞かせて頂いて、だから減るとこは減ったがいいと私は思う。
 つまらん、只、ご利益亡者ばっかりが、いみったってつまらんて。そして本当の生神の金光教の信心とは、例えば立教神殿にもとづいて神様が願ってござるところの、親に掛かり子に掛かり、あいよかけよでて立行く助かりの道を、辿らしてもらう、そういう道を体得させて頂くという信奉者で固めていかねばならん。
 それにはね、大変な育て方が必要、そういう意味でです、例えばお道の教師にでもならせて頂くという、いうならばお育て役ですからね。充分苦労がいる事だと。
 昨日、博通先生が夜の御祈念の当番でした。お話を聞かせて頂いておりましたら、丁度昨日、三名御本部へ発ちました。十日が立教記念式がありますのに併せて、教師の新任式がある。いよいよ教師にならして頂くという事なんです。それで昨日、自動車で三名、今日、二人発ちます。それで一年前の今夜の事を思うたんです、御祈念しながら、一年前の今日、私共も、いよいよお道の教師としてお取立頂く。その事を思わせて頂いて、頂けば頂く程、丁度あれから一年にならせて頂くが、果してどれ程しの事が出来、どれ程しの信心を身につけたであろうかと、思うて【  】に耐えないと、ひとっも変わりばえのない事を相すまんと思いますというて、いうような話をしておりました。
 私は聞かせて頂きながら素晴らしいと、自分が変わっていないと言うことを、そういうふうに深刻に感ずるだけでも素晴らしいと。本当に一生懸命このように毎日御教えを頂いて、信心の稽古をいうなら専門にさせて頂いておりながら、かわりばえのない自分の信心を見て、もういうなら悲しいまでにそれを感じておる。という程しに博通先生は変わったという事になります。
 一年前にそんな事なんか思いやしなかった。もう先生が行けと言うから行った位のもんじゃった。その為にはその一生懸命やりよるかと言うと、ストッとどまぐれてみるというごたるふうでもう、まあ、しだごだだと自分では感じておる。
 そして又、折角お取立頂いたのであるから、本気でお道の教師として御用が出来るおかげを頂かせてもらわんならん、と思うたり願ったりするにつけても、一年間の間に、自分の信心がどれ程進展したかと思うと、神様に相すまん事ばかりだと。
 末永先生じゃないけれども、二、三日前に頂いておる。ただでまかのうて頂いておるとおっしゃった神様が・・・・。神様から只でまかのうて頂いておる。しかもお育て頂いて信心を頂かせて頂いて。だから泥棒信心にどもなるな。おかげ泥棒にどもなるなというお知らせを頂いておる。そういう自覚が取次者に各々出来てくるという事 しかも一年前の今日から、一年後の今日を振り返って見て出来ない事を相すまんとこう言う。それはどういうような事だろうか。成程、子供の時から信心しとりますから、神様にいろんな事をお願いしたりという信心は、もう子供の時から丁度ここの若先生と友達ですから、子供の時からやっぱり連れのうて信心させて頂いておる訳です けれどもそういう信心がです、そんなら今日お道の教師にお取立頂いて、どういうふうに変わってきたかというと、私はその後、皆さんに聞いて頂いた訳ですけれども博通さんは一年間で変わってないというけれども変わっているて。というのは、今までの願うという信心から、願われておるという自覚に立っての信心になっておるという事が素晴らしいじゃないかと、いうて聞いてもらったんです。
 今までは、どうぞお願いします、お願いしますという信心から、願われておる信心いうなら神様に願われておる信心。親先生に願われておる信心、その親先生に応えていかなければ、神様の願いに応えていかなければならないと思うけれども、思うておるけれども、そこんところがはかばかしくなく、という事が【  】に耐えない。相すまんとこう言ってる訳です。
 まあ、いろいろなタイプがありましてね、信心を進めて行くに致しましても、例えば秋永先生から、又久保山先生やらの信心を、いつも私は例にとりますね、合楽の信心の、やはりひとつの型なんですよ。
 皆さん御承知かもしれませんけれども、久保山先生の信心は、もうそれこそ、三味線の調子でいうなら、本調子の信心だと私が言うのです。丁度十年間だったでしょうかねえ、私が起きる前にそして私を起こして、私に奉仕着をつけさせて、そして御広前に一緒に出られる。もうこれがそれこそ一日のやすみもなしに続けられたんですからね。もうそれは本当に今の修行生の人達が見たらびっくりしますよ。
 そしてそんなら、たいぎょうと自分でもいっておられるように、私の御理解をず-っと克明にあんなに見事にね、御理解集を作られた。そしてもうそれこそ、掃除の事からお供えの事から、もう教会の全般にわたってね、もうそれこそ、お掃除なんかでも、それこそ内外共でしたよ。
 それでいて今度は、家では又それこそ、畑のちょっと昼に二時間帰られるんです。 その間に広い畑をもう、それこそ花畑のようにきれいにしてありました。今なんかもう、荒れ散らかしです、あれだけの若い者が居るけど出来ません。それは仕事も早い方でした。もうそれは、すっとり早い事、早い事、もう本当に、それこそ合楽の全てのところに自分がタッチしての御修行でした。いわゆる本調子なんです、信心がいよいよ本調子でした。
 そうすると秋永先生となるとそうじゃなかった。反対。だからあんたの信心はまあ二上がりのとこじゃと、ちょっとお調子にのると人のせん事でもパ-ッとやってのけるという信心です。
 先代の三橋先生は三下りだと。仲々粋な信心した人ですね。いわゆる三下り的でした。秋永先生が二上がり、ちょっと二の糸がきいとる方じゃった、信心が・・・・。 それで神様の心がスッ、スッとなにかこう入っていけるようなものを持っておりますね。まあ、いうなら、昨日の博通先生が話を聞かせて頂いておって、まあ、どっちかというと秋永先生的なものが濃厚なんです。まあ、そのままという訳じゃないけれども、なしかと言うと、時々どまぐれます。御本部でもやっぱどまぐれた。そしてあちらの担任の先生がわざわざ私に注意をして来なさる位じゃった。けれども私は、一言だってあの人に言うた事がありません。本部からこげなこつ言うて来るとか言うた事がなか。けれどもですね、どまぐれた後に、必ず素晴らしい信心に入っていくですこの人は。それは神を意識する神様は有難いお方であると同時に、恐い方である事がわかってきたんです。しかもその神様に、願われておる、願われておるという、いわゆる、私の黙って治めるという信心にです、やはり心では相すまんというのが、どまぐれた後にサ-ッとこう今まで出来なかった修行が出来るといったような感じなんです。だから皆さん、その真似をするというのじゃなしに、それぞれの性格というものがありますからねえ、やはり。信心性格というものが。だからそれぞれの独壇場といったものを、持たなければなりませんけれども、博通先生が場合はそうです、そういうところを相すまん事だと自分で言うておるのでしょう。
 けれどもその都度にです、やはり一つの波状型です。こうやって、ここまで登ったかと思うとストッと落としとる。けれども、その次ぎには又、この位伸びとるとういうようにですねえ、こんな具合で信心が伸びていくタイプなんですよね。
 それを言うて聞かせたり、おごったりどんしよるなら全然出来んという感じです。 まあ、師匠としては、言いたい事も沢山ある。けれども言わずに黙ってそれを治めるという行き方なんです。そういう事もです結局、神様に願う信心から、願われる信心、いうならば立教神伝を体しての信心に段々なってきたという事。
 ですからそれがです、お道の教師を目指すものだけがそれであるというのではない 最近私が神様に願っておる、いわゆる真の信心と言うかね、真の金光教の本当の発展それは仲々素晴らしい花だけれども育てにくい。それこそ、只、枯れ木も山の賑わいといったようなね、いうなら人間は、溺れる者、藁をもつかむといったような事できやすう助けられるといったものやらは、もうみんなが飛びついてきますから、アッという間に広がる。それこそ夏の日のかぼちゃ畑のようなものです。もうアッという間畑いっぱいに広がる。
 そんならメロンならメロンというものは、そう沢山はなりません。それは本当に真のどうぞ信心しておかげを受けてくれよというおかげを頂いてもらいたい。
 そしてこれが、成程ほなおかげだなというのが、昨日から私が申しますように尽きぬおかげ、それこそ泉が湧くようなおかげを頂き続けていけるという程しのおかげなんです。昨日も申しましたですかね、大きなおかげを頂くとか、大きな信心というのは、自分自身が小さくなる事だと申しました。自分自身を窮屈なところへ追い込んでいくという修行が必要だと。
 例えて申しますとですね、それはこういう事だったんです。例えば私が米一粒買いません。布一寸買いません。この生き方でいった。もし自分というもうをお米が集まってこなければ・・・・私は、お供えてんなんてん考えた事もなかった。けれどもそういう事を神様に、やはり誓わせて頂いた。だから自分という者を、いよいよ窮屈なところに、もう米一升買われんのだ。窮屈なところに追い込んでいった訳です。
 布一寸買わんのですから、私と家内とだけはという誓願が立てられた。だからもう本当に窮屈で本当にそんなら、ぼろを身よつけなければならないような事になるだろうと、まあ普通でなら思うところですね。金光教はそうじゃないです。そういうところにならせて頂いた。ところが今度はそれは反対に、とても自分が金を出してからなら買いはきらんような、反物が集まってくる。着物が集まってくる。とても自分が買うてからなら、とてもこげな十俵という米は積み上げとかんでしょうがという位にお米が集まってくる。そういう中におれれるという事なんですよ。自分を窮屈なところに置くという事は。
 だから自分という者を段々窮屈にしていくという事が、大きなおかげを頂いていく事になるのです。だから真の助かりというのは、御理解二十六節に、さっき申しましたように、日に日に生きるが信心なりという事。日に日に生きるという事はです、日に日に自分という者を無くしていく、むなしゅうししていくという事。そしてあくる日は、新しい自分が生まれておるという信心なんです。日に日に生きるという事は。 いわゆるそこには我情もなければ我欲もない。自分という者をかなぐり捨てての生き方。そういう生き方をです、容易う出来るように教えておるのです金光教祖は。
 火の行とか、例えば難しい戒律とかいったものがない。とっても人間じゃそげな事は出来まいと思うような戒律というのもがない。そういう気になれば、誰でも出来る修行なんです金光教の信心は。
 そういう私は生き方にならせて頂く事がです、成程金光教の信心は日に日に生きるが信心なりだと。日に日にさらな私が今日誕生しておるという事なんです。
 昨夜、最後の御祈念をさせて頂く前に、現在学院に入っております人達に、何か持って行かんならんと、それはもう、持って行くなら漬物が一番喜ばれるとこう言うのです。いつも合楽から持って行く漬物は、もうアッと言う間にしまえる。みんなが漬物にかつれとる。それはもう、ちょっと漬物だけはお粗末らしいですねえ。ですからもう、漬物が一番よいと私はその時すぐその事を思うたんですねえ。
 これはもう、毎月ひと樽づつ位、漬物屋さんに言うといてから送らしたらよかろうと、私が思ったんです。他所の大きい教会やらなんかは、大きなビフテキやら送ってきたり、餅を送っりいろいろされる。合楽だけです、なあにも送らんのは。一番お世話になっとるんですよね。昨年なんか五人も行っとるのですから。そんな教会はありません。それにうちからは、なあにも送らんのだから。どうかせにゃ、何かと思いよるところでしたから。これは毎月ひと樽づつずっ-と送ろうと私がこう思うたんです それを神様に最後の時お礼をさせて頂いたら『楽』という字を頂いた。そのてんのないところの『楽』を頂いた。学院というところは楽しに行くところじゃない。いうなら学院から帰ってきてです、もう何よりもかによりも、うちの漬物が一番おいしいとわかるところなのだ。してみるとそんなら、これから布教にども出ろうかというのは、さあ今日は鯛の刺し身、明日は何というごたるものを食べられるなんてん夢にも思うておりませんからね。布教にども出ろうかという時には。
 もう、それこそ塩ででもええ、食べられさえすんなら、もうそらよか方なんだ。ですから本当に漬物の有難さをわからして頂く、一年間にこちらがおいしかつをどんどん送ったら、それこそ布教に出た時が困る。そげないらん人間心を使うなという事だったんですよ。ですから厳しいのですけれども、例えばその位の事ならやろうと思えば出来ん事はないでしょうが、それはもう本当に、先日も本見よりましたら、三週間も、だあれもお参りがなく、お水だけで過ごしたという先生があります。3週間目に一升のお米がお供えにきた。もうそん時に有難さ有難さという事が書いてあった。以来おかげでずっとおかげ頂いとるというようにです、三週間の断食位出来ん事はないですよねお互い。今博通先生も昨日から断食に入っておる。なんか、どまぐれとった 自覚が出来た、だからお詫びのしるしにと言うて普通出来んような修行が出来る訳なんです。だからこれがお詫びのしるしにじゃなくて、本当に有難い勿体ないのお礼のしるしに、これが出来るようになったら、これはもっと素晴らしいです修行は。
 そういうような修行なのですから、金光様の信心は、難しいというものではない。 そういう気になれば誰だって出来る修行。それはそんなら、日に日に生きるが信心なりという信心が身につかなければならない。そこから頂けれるおかげがです、神も助かり氏子も立行く、いわゆる、末々親に掛かり子に掛かり、あいよかけよで立行くような道は、そういう信心からしか生まれてこない。
 只、自分が願わんならんから、どうぞと言うてする修行じゃない。神様に願われておるという自覚に立たせて頂いた時、神様の願いに応えようと、やむにやまれん精進するのが金光教の信心、これが本当の信心なんです。
 その神様に応えさせて頂く信心が、垢ぬけてくればくる程です、自分という者をどういう窮屈なところに置いてもです、とても自分で頂ける位のこつじゃない、自分じゃ勿体のうしてこたえんようなものがです、自分を窮屈なところえ持って行く、そういうおかげを頂く為にする修行じゃな。けれども、これは私一人の体験から言うても窮屈なところへ自分という者を追い込んでいくという事は、いよいよ広々とした大きなおかげの世界がわからせて貰うという事だという事です。
 だから一応やはり、自分という者を窮屈なところへ追い込んでけれるだけの、一つの度胸といったものが必要である。
 度胸さえ据われば、金光様の御信心は誰だって出来るという事。そこで例えば、立教神伝の内容というものがです、教祖金光大神に下され、その教祖金光大神の教えを頂きますと、やはりそんならお道の教師も、この立教神伝にもとつがなければ人が助かるという事にはなってこない。いや、お道の教師だけではない、この立教神伝にもとずかなければ、金光教の本当のおかげは受けられないとう事になるのです。
 だから、そういう本当な事のわかっていく。そういう本当の事を表していけれる人達が集まらなければ、とてもそれを世界の市場に出すといったような事は絶対できません。只、何十年信心しよりますどん位の事が、看板にはなれやしません。
 今言う修行の時は、こういう修行もさせて頂いたけれども、おかげでこういうおかげを頂いておるという事実をね、ひっさげて市場に出せれるような、信者がふえなければ。だからお道の信奉者は、減るなら減ってもかんまん。そういう合楽で今言うとるような信者が、一人でも二人でも段々出来ていく事からです、それは、成程、育て方は難しいけれども、それを、根を絶やさんように育てていくならば。
 だから成程、世界真の平和といったものが、そう、てんばらやすう出来るもんじゃない。千年も万年もそれはかかるかもしれんと私が言うておるように。けれどもやはりそこから、立ち上がらせて頂くところの、只、例えば何と申しますか、いうならどんどん宣伝してから、そして金光教広げるという、広がったところでです、そこに真の助かりがないならばね、値打ちはないでしょうが。そんなら今の、ほとんど日本国中に広がっておる、仏教の信心を頂いておる人達が、全国に広がっておるけれども、助かっておるという事は、ひとっつもないでしょうが。
 だからそういう助かりがです、世界に広がったっちゃ同じ事だという事。キリスト教の信者が、どの位あるかわからんけれどもです、実際は助かっていないでしょうが いや助かるなんていうご利益の事は、低級だとさえ決めつけておるじゃないですか そういうものが、それこそ何億出来たところで、同じ事なんです。やっぱり現在のような困った状態だけの事なんだ。
 そこで金光教の只今私が申しましたような、信心が各々の信条になり、自分の身に頂けせて頂けれるようになる。それが一人づつでも、広がっていく事を願いとさせて貰う為にです、まず自分自身が本当に助からなければならない。それには言葉では大変厳しい。日に日に生きるが信心なりという事は、日に日に自分という者をむなしゅうしていくという事。そして、さらな自分が生まれていくという信心。
 大変の難しいようですけれども、教えを行じていっておりますと、そういう事にならされてくる。大変熱心であったという訳でもない。博通先生が、お道の教師として一年前におかげを頂かせて頂いて、一年後にどういう事になってきておるかというと願われておる自分という事の自覚が出来てきた。これからが本当の信心、その願いに応えさせて頂こうという信心をです、これから身につけていこうと言うておるようにです、私共の信心もやはりそこから出発する信心でなからなければ、親に掛かり子に掛かり、あいよかけよで立行くようなおかげにはなって参りません。
 願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせとおっゃるように、願う時代には願っている。願わにゃならん、おかげも受けなければならん。けれども次ぎに理解申して聞かせとおっしゃるのですから、その理解を頂かせて貰うと、今日私が申しましたような事になってくるのです。
         どうぞ。